iPhone SE (2016)

iPhone XからiPhone SE (2016)に乗り換えたが快適である。

 

iPhone Xのロックボタンが摩耗で壊れ、買い替える必要があったが、最近のiPhoneはあまりにも大きく値段が高いので代用機として買った。It costs €70 = 一万円くらい。だけども、大きさがちょうどよく、また非常に軽い(そしてカメラがでっぱっていない!)ので、結果メイン機として一年ほど使っている。

問題は二つ。一つはバッテリーがもたないことである。ここでスマホが大きくなったのはバッテリーを持たせるのが一つの要因であったと気づく。もう一つは、処理能力が低いこと。例えばSpotifyで音楽を聴きながらマップやブラウザが開けない(音楽がぶつぶつ途切れる)。

 

しかし、よく考えるとそんなに音楽を聴く必要があるだろうか?という疑問が湧いた。結果何となく音楽を聴くことは無くなった。そしてよく考えたら最近Spotifyアルゴリズムも良くないし、お金を払っていても謎のtop hitみたいなもはや広告みたいなプレイリストを提案してくるしで、大変疲弊していたのに気づく。そこでSpotifyも解約した。そしたら音楽は家で、聴きたいと思う時に聴きたい音楽を聴くようになり、音楽を聴くという体験が、高校生の時のような感動を伴うものになってきた。全てが手に入ると全てが退屈になる。(無料)の罠である。

SNSも消した。iOS15はもはやアップデートされないが、アプリはアップデートされる。そうするとアプリはどんどん処理がヘビーになる。反応が遅いとイラつくので使わなくなる。結果情報収集はNews Letterでmail native app + safariになった。問題はない。そう考えると我々がSNSを使う理由はもはやコンテンツではなく快適なインタラクションであったのではないか。処理能力が落ちてインタラクションが快適でなくなると使う理由がなくなる。

 

テクノロジーは断捨離が必要になってしまった。しかし、出来るものを自分の意思で出来なくするようにするのは非常に難しい。iPhone SE (2016)は、図らずしも私の外部から、出来たものを出来なくさせ、今のテクノロジーの飽和を私に感じさせた。

 

 

1on1 to NonN: 個人間の感情的問題をシステムで解決することについて

話1:大学である二人の教授がある部屋をどう使うか揉めている。教授Aはそれを教授Bに1対1で直接話に行ったが、教授Bは話を逸らした。数日経つと教授Aは、”教授Bが部屋の所有に対して教授Aに対して不満がある”と大学職員から聞いた。教授Bは教授Aではなく大学職員にまず話をしていた。

話2:会社の従業員Aが休みが欲しかったので、社長に”x日に休みもらえますか?”と質問すると、社長は”いいよ。どこかに行くの?”といった。ある従業員Bは”社長それ世間的にはパワハラですよ。ははは。”と言った。

話3:ある女性が痴漢に遭った。痴漢をした男は”お前がミニスカートを履いているから悪いといった”。女性は精神的苦痛を負い、またこのようなことが社会では二度と起きてはいけないと思い”ミニスカートはお前のために履いていない”ということを主張する社会運動を行った。

どの話も実際に私が聞いた話を書いているのだが、ソースがないので架空の話ととってもらってもよい。でも昨今よくある話と感じることができると思う。

 

この話たちの主題はハラスメントではなく、誰が悪いということでもなく、個人間の感情的問題をシステムや第三者を介入したサービス、もしくは社会風潮を主張することで解決する傾向が世間で増えてきているということである。ここで個人間で話し合って解決することを1on1と名付け、システムを通して解決することをNonNと名付ける。

話1は、1on1なら教授間で話し合うことである。こういうふうなことがあるからこの部屋をこう使いたい、このくらいの面積を使いたいということを数分話すこと。NonNは大学職員を通して解決することである。

第2の話は、1on1なら従業員Aが(もし本当にその人がパワハラと思っているなら)”私そういうこと話したくないです”と言うこと。NonNなら従業員Aもしくは従業員Bがそれ社会的にはパワハラですよと言うこと。

第3の話は、1on1なら女性が男に訴えること。NonNは社会運動である。

 

NonN化することのポジティブなことは弱者的な立場の人が権力を持っている人に対抗できるということである。数で勝負である。

ネガティブなことは、一度社会的にNonNの主張が通るともう誰もそれがなんとなくできなくなってしまうことである。”どこに行くの?”と言うカジュアルな話はハラスメントになる。どう部屋を使うべきかという仕事上重要な意思決定も二人の間に権力差があればハラスメントと言われるかもしれない。ミニスカートで誘惑しナンパを期待したい女は、男を誘えなくなる。なぜなら男がナンパをすると痴漢になる可能性があり社会的に終わるから。

カジュアルな会話やナンパと、ハラスメントと痴漢は連続的につながっているが、閾値がある。しかし、その閾値は本来個人的なものである。NonNでは閾値が個人的に決定できなくなりわからなくなるので、誰もそれをやらないで回避する方向に行く。

 

我々は個人間で感情的に争うことができなくなっているのであろう。”どこに行くの”とカジュアルに聞けない社会はかなり問題があると思う。このような会話ができなければ、どうやって知り合いや友達を増やすのであろうか?最近の若い人は友達が少なくなってきているらしい。なぜなら腹を割って話すと他人や自分の感情を害すことになるから。

 

今でもよく会う友達は喧嘩や何かしらの衝突があった人である。衝突なしで本当に良い友人というのは作れるのだろうか?

フライト2024:ベルリン->アムステルダム->東京

所持物:パスポート、ベルリンの滞在許可証

空港会社:KLM

出国審査:アムステルダム、出国審査員二人(そのうち一人がEU、一人が他。しかし、どちらでも良かったっぽい)

 

今回のチャレンジは乗り換えが55分しかないことだった。出国審査がアムステルダムで行われた。審査自体は列に並んだ時間も含めて、20分程度。

 

今回は運良く列の最初の方に並べたが、他のフライトの到着時間が被っていたら危なかったかもしれない。

 

国語お絵描き

現代思想の『総特集=宮﨑駿『君たちはどう生きるか』をどう観たか』を読んだ。その中で、映画を見たその瞬間は何も感じなかったものが、時が経つとああそうだったのかというものがある。この映画はそういうものをたくさん含んでいる。的なことが書いてあった。

映画に限らずそういう感動が今までの人生であっただろうか。人生まだ30年も生きていないので、正直あまり鮮明に覚えているものはないが、無理やり捻り出してみると一つある。それは「物理はなぁ、国語お絵描きだぞぉ」という高校の物理の先生の口癖である。

 

高校の最初の2年半、私の通う高校には物理の先生がいなかった。そのため化学の先生が代わりに物理を私たちに教えていた。

最後の半年に突然、高身長で少し禿げていてメガネでちょび髭の物理の先生が赴任してきた。なんかすごい物理やってそうな感じだなと思ったのを覚えている。

彼は私たちに物理を何も教えなかった。というのもうちの高校ではすでに高校の課程での物理教育は完了しており、授業は受験勉強の時間になっていたからである。

彼の仕事といえば、物理の問題を印刷して私たちに配るだけだったのだが、とにかく毎回「物理はなぁ、国語お絵描きだぞぉ」と言っていた。

これはつまり”問題をちゃんと理解して、力が掛かる方向を矢印で書け”という話だったので、受験勉強に特化した退屈な助言だと当時は思っていたのだが、今になって私はこれは科学や工学の本質をついているのではないかという気がしている。

つまり、国語お絵描きとは、目の前にある問題をよく見て、自分の理解が進むような表現(representation)で捉え直せということなのである。これは研究、特にアイデア段階で非常に重要なプロセスである。

なぜ私はその物理の先生の言葉を記憶したのか。私は、それが本質をついたからではなく、”国語お絵描き”という標語を作ったことにあると思う。リズムも良く小学生にもわかる文字で本質を表現している。それは本質自体の説明ではないから最初はわからないのだけど、本質を後に知った時、この標語によって何か自分の中で腑に落ちる。

 

君たちはどう生きるか』にもそういう標語的な動画や物語があるのかもしれない。実際そういう何かありそうと思わせるシーンはたくさんあったような気がする。いつか気付けるといいと思う。

北野武作品について

『この男、凶暴につき』、『ソナチネ』、『HANA-BI』を見た。

 

それら初期の北野武作品の特徴は、ビートたけしが演じる主人公に内在する暴力的感情を、表面的な表現としてのニヒリズムで描いている点にある。作品の中の暴力的感情は、主人公の身の回りに起こる理不尽な避け難い連続的な不幸の蓄積から発生し、彼の周りの世界の完全な破壊 ー それは主人公自身を含む ー によって収束する。この破壊のプロセスでその世界の人々は、突発的な暴力に巻き込まれ、時に死ぬ。ほとんどの登場人物は全くの無表情で、息を吸うように暴力を受け入れ、他人の死を傍観する。暴力と死が何ら特殊性も無く描かれ、それが表現としてのニヒリズムを作り出し、生と死がこの世界では表裏一体であることを示唆する。 

一方、映画の約八割が暴力で占められているのにもかかわらず、北野武作品は、美しく気品があり、そして(あまり)恐怖を喚起させず、時に笑える。これがコメディアンとしてすでに成功した北野武の妙である。

彼の一つの特徴的な表現手法としてデッドパンの多用がある。デッドパンは喜劇映画(特にキートン)でよく使われる手法で、例えば大笑いするようなことが起こった時、登場人物が無表情で反応することによって、視覚的、感情的なズレを生み出す。視聴者はその絶妙なズレに笑う。
北野武作品ではデッドパンは、喜劇映画同様ギャグの表現として用いられるが、暴力に直面した際の登場人物の描写としても用いられる。この対照的な表象がほぼ全く同じ手法によって行われることによって、暴力と死はギャグに近づき(and vice versa)、特殊性を失う。これがニヒリスティックなトーンを作り出す。

昨今の北野武作品は、エンターテインメントに寄り、この虚無的なトーンはあまり感じられない。初期作品にみられたその特殊なトーンは、それらが作られた90年代、つまり人々が虚構(経済発展)が虚構であったということに気づいたという時代背景があるのであろう。死 ー それは身体的な死ではなく、精神的なものだが ー を気にする必要のなかった祭りのムードは崩壊し、人々はそれを克服する方法を模索していた。北野武においては、それは死とギャグが限りなく近いということを気づくことだったのであろう。

迷惑を掛け合うか、迷惑を掛け合わないか

ドイツは絶賛ストライキでほとんどの電車(S-bahn)が止まっている。そうなるとベルリンの郊外に行く方法が車しかないので家で仕事をする。(そして仕事と関係ないブログを書く...)

ドイツ、特にベルリンは労働者第一である。勤務時間になれば何がなんでも終わる。服装は概ねなんでも良い。病気になればほぼ確実に休むことのできる権利がある。滞在許可書を取るために必要な書類が担当の職員によって違う。ともかく労働者が多くの意思決定をできる。

そして最も重要なのは国民がそれを当たり前に思っている。労働組合がちゃんと機能している。だから良くも悪くもストライキが多発する。みんな顧客の立場からすると不満はあるようだが、そういうものだからしょうがないという感じがある。

 

少し話は変わるが、その国民性に関わるであろう話をする。

ベルリンで電車に乗ると日本との違いに驚く。電車の中でホームレスが寝ていて、ある人は犬を連れていて、ある人は2人乗りのどデカいベビーカーを押し進め、ある人はイヤホンをつけずにYouTubeを大音量で流し、時々バンドが列車内で演奏し、横では若いグループがケバブを食っている。それに対して嫌な顔をしている人もいるが、みんななんとなくそれはしょうがないという気持ちでいるようである。その自由を規制しようとすると自分の自由が規制されるからであろう。ドイツは迷惑を掛け合う文化である。

ドイツ人は東京の電車に乗ると違いに驚くであろう。ゴミは全く無いし、人々は綺麗に並んで綺麗に電車に乗る。アナウンスを除けば電車内は静かで、空調もよくケバブの匂いもしない。しかし、どデカいベビーカーや演奏するバンドを東京の電車内で見ることはできないであろう。日本は迷惑を掛け合わない文化である。

どちらが良いかというとどっちもどっちである。結局は中間がよく迷惑を掛けないようにしつつ、迷惑がかかってもそれを許すということが良い公共の場であろう。

その良い公共に日本とドイツどちらが近いだろうか。今のところはドイツなような気がする。日本がその方向に行けるかはわからない。


PS: 実際問題は文化ではなく、純粋に混雑にあると思う。ベルリンでは座れない方が稀である。満員電車でバンドが演奏してたら誰でもキレるだろう。

昔のインターネット

仕事ではSlackのようなものは使わずメールを使っている。最初は戸惑っていたが、今は非常にシンプルで良いと思っている。

どうせなら全ての情報をメールクライアントに集約したいなと思い、気になったWebサイトはURLを自分にメールして、世の中の情報はSNSではなくメーリングリストやニュースレターなどから得ることにした。これが意外に快適で、たくさんの情報を見なくて済むようになった。別にたくさんの情報がなくても創造的になれると気づく。

そういう生活をしていたらふと昔のインターネットを思い出した。情報を渇望しなければ手に入らない世界。洗練された写真よりも文字や低解像度の画像が溢れていてる世界。ほとんどのフォントがTimes New RomanとComic Sansの世界。私が幼稚園から小学生の頃のインターネットの話である。

あの頃のインターネットはクソだったが異世界だった。可能性が満ち溢れていた。多くの人間がクソみたいなデザインの"ホームページ”を持っていて、リンクを貼って、相互リンク♡とか言っていた。あらゆるホームページが不完全だが個性があった。

今は全て同じである。YouTubeの動画もTikTokSpotifyもクールだが何もかもなんか同じである。Notionでホームページを作るとおしゃれで非常に見やすいが全部同じ。ベストプラクティスがシェアされ、コンテンツのデザインもインタラクションも全て同じ。なんでこんなに同じになってしまったのか。

そう思って”昔のインターネット”とか”good old internet”とか検索すると2020年あたりから結構いろんな人がそういうことを言い始めている。それはなぜなのだろう。

 

とにかくいま昔のインターネットが懐かしくなっている。ただの懐古主義なのかもしれない。しかし、一定数の人間が同じことを思っているようだし、人類がSNSに疲弊しているのは間違い無いので、あの頃には戻らないにしても次の10年にインターネットは何か違う方向性に行くかもしれない。

とりあえず匿名のホームページとブログなのかもしれない。ブログでも始めるか。と思いなんとなくブログを始める。色々なブログサービスがあるが、なぜかはてなは昔のインターネット感を維持している気がした。

本気であの頃に戻るならHTML直書きかもしれない。でもそれは続かなそうだからとりあえずこれで。


この文章自体が、あのころのインターネットを感じる。このような文は長らく書いていなかった。誰に向けているのかわからない洗練されてないポエム。長文では無いが読むには長すぎるポエム。しかしなんか気になる感じ。。。