北野武作品について

『この男、凶暴につき』、『ソナチネ』、『HANA-BI』を見た。

 

それら初期の北野武作品の特徴は、ビートたけしが演じる主人公に内在する暴力的感情を、表面的な表現としてのニヒリズムで描いている点にある。作品の中の暴力的感情は、主人公の身の回りに起こる理不尽な避け難い連続的な不幸の蓄積から発生し、彼の周りの世界の完全な破壊 ー それは主人公自身を含む ー によって収束する。この破壊のプロセスでその世界の人々は、突発的な暴力に巻き込まれ、時に死ぬ。ほとんどの登場人物は全くの無表情で、息を吸うように暴力を受け入れ、他人の死を傍観する。暴力と死が何ら特殊性も無く描かれ、それが表現としてのニヒリズムを作り出し、生と死がこの世界では表裏一体であることを示唆する。 

一方、映画の約八割が暴力で占められているのにもかかわらず、北野武作品は、美しく気品があり、そして(あまり)恐怖を喚起させず、時に笑える。これがコメディアンとしてすでに成功した北野武の妙である。

彼の一つの特徴的な表現手法としてデッドパンの多用がある。デッドパンは喜劇映画(特にキートン)でよく使われる手法で、例えば大笑いするようなことが起こった時、登場人物が無表情で反応することによって、視覚的、感情的なズレを生み出す。視聴者はその絶妙なズレに笑う。
北野武作品ではデッドパンは、喜劇映画同様ギャグの表現として用いられるが、暴力に直面した際の登場人物の描写としても用いられる。この対照的な表象がほぼ全く同じ手法によって行われることによって、暴力と死はギャグに近づき(and vice versa)、特殊性を失う。これがニヒリスティックなトーンを作り出す。

昨今の北野武作品は、エンターテインメントに寄り、この虚無的なトーンはあまり感じられない。初期作品にみられたその特殊なトーンは、それらが作られた90年代、つまり人々が虚構(経済発展)が虚構であったということに気づいたという時代背景があるのであろう。死 ー それは身体的な死ではなく、精神的なものだが ー を気にする必要のなかった祭りのムードは崩壊し、人々はそれを克服する方法を模索していた。北野武においては、それは死とギャグが限りなく近いということを気づくことだったのであろう。